今回の話は少し前に亡くなった祖母の話です。
亡くなる少し前に認知症で入っていた施設に訪れることができたのです。
その出来事で「生きる」ことについて考えさせられることがあったので、お伝えしたいと思います。
亡くなる前に書いたものなので、多少言葉に違和感のあるところもあるかもしれません。
久しぶりに施設で暮らしている祖母のところを訪ねてきました。
祖母は現在89歳、なかなか長生きしてくれています。
生きてはいますが、僕が訪ねていって声をかけても返事を返してくれることはありません。
ベッドに横たわったまま目は開けているものの、口は真一文字に結び、自分の身体を抱きしめるように腕を折りたたみ、ギュッと力を入れてじっとしています。
母曰く、多分、もう目も見えていないと思うし、声も聞こえていないかもしれないと。
目線すら合うことはありませんでした。
食事も、とることができずもう長いこと点滴だけで生活しているそうです。
母や僕が腕をさすっても、祖母はますます力を入れて自らを抱くように力むのみ。
おそらく怖いんでしょう。
自分に触れてくる者が誰であるかわからないし、そもそも僕たちことももう記憶にはないと思います。
祖母は認知症です。
59歳の時に僕の祖父にあたる夫を亡くしました。
そこからは、1人暮らしです。
60を過ぎてから、
「通帳をどこにやったかわからない」
という母への電話を皮切りに異変が起こりはじめました。
母と出かける時に待ち合わせをし、一向に現れないので電話すると、
「そんな約束をした覚えはない」と怒りだす。
そのうち、近所を徘徊するようになり、近所の方から母へ連絡がたびたび入るようになりました。
この頃にだったと思うのですが、一度家に連れてきたことがありました。
僕が高校生の頃だったでしょうか。
祖母はいつも通りの優しい感じだったのですが、時折、急に他人行儀になり、僕に名前を尋ねだす。
また、しばらくたつといつもの感じに戻るといった状態でした。
スイッチが入る(切られると?)と、ずっと虚空を見つめながらぼーっとするような状態になりました。
それから、しばらくして、家では面倒みるのは困難であることから、施設に入ることになります。
70歳前後の頃だったと思います。
施設で暴れることもあったようで、精神科の病院に入っていたこともありました。
そして今は、認知症の病院みたいなところで過ごしているという状態です。
今のところには入ってもう10年になっていました。
祖母は今も確かに生きています。
死亡の判定は、
1、呼吸の停止
2、脈拍の停止
3、瞳孔拡大
3つの兆候が見られる場合、
総合的に死亡したと認められます。
多くの場合、
睫毛反射・対光反射(直接反射、間接反射)の消失、
胸部聴診(心音・呼吸音の確認)、
橈骨動脈・頸動脈の触診をおこない、
心電図モニターで脈拍がゼロで平坦であるのを確認し、
家族に向かって死亡宣告をおこなうそうです。
祖母は今も心臓も動いているし、呼吸もしているので、そういう意味では生きています。
ただ、食事もできず、点滴で生かされている状態で、日々何もせずただ寝ているだけの状態で、人として「生きて」いるといえるのでしょうか。本人は生きたいと思っているのでしょうか。
もう本人の意思を聞くことも叶いません。
同じ病室の周りの患者さんを見ても、そんな感じの人ばかりです。
僕たちの他にお見舞いにきている家族の方もいましたが、僕たちと同じように一方的に声をかけているだけで、反応している様子はありませんでした。
病院にいる間中、ずっと叫んでいるような奇声が聞こえていましたが、元気があるだけ祖母より
「生きている」
と感じました。
別に、だから安楽死があってもいいなんていうつもりはありません。
ただ、医学的に生かされていることが「生きている」といえるのか?
という「生きる」ことについて考えさせられただけです。
こういう現実もたくさん世の中にはあるんだということを知ってもらおうと
思い、今回ブログに書きました。
少しでも長く生きることを楽しめるために、何をすべきか考えてもらうきっかけになれば嬉しいです。
僕も、今健康に過ごせていることを当たり前と思わず、先のことも考えてできることをしていかねければならないと思いました。